こんにちは、松波慶次です。
ファンタジー×ショートストーリー『ヨウコウアゲハ』の小説と朗読動画を載せています。
ひとりの少年の成長物語です。
あらすじ
この島に伝わる、太陽のように輝くアゲハチョウ「ヨウコウアゲハ」。ずっと見たいと思っている。
僕の唯一の友達・明は「一緒に探しに行こう」って言ってくれるけど、ヨウコウアゲハは山のなかにいる。身体が弱くて、学校にもろくに通えていない僕が探しにいったら、きっと死んでしまうから無理だ。
ある日、島で唯一の医者・村上先生が言った。
「こころを強くするには、恐れず挑戦することが大切だぞ」
僕は強くなるために、明と一緒にヨウコウアゲハを探しにいったーー。
小説『ヨウコウアゲハ』
文字数:約15600字(約25分)
手元の白いパレットに絵筆を運ぶ。鮮やかな水色を筆先につけたら、広いキャンバスに押し当て一思いに走らせた。毛先にしがみついていた絵の具が散り散りになり、落ちた箇所から花が咲くように色を広め青空を描き上げていく。初夏のしつこすぎない熱気は、絵の具が渇くのにちょうどいい。
「次は、白だ」
パレットと同じ、何物にも染まることができる白い絵の具に筆を当てたとき、音もなく部屋の扉が開いた。
「こんにちは、勝利(しょうり)くん」
「……こんにちは、先生」
ここにも、白。白衣を着た村上悟朗先生は慣れた様子で僕のベッドの脇に来ると、そばにあった椅子を手繰り寄せ座る。先生とベッドに起き上がっている僕の目線が合う。
「きれいな青空だね」
先生はきれいに撫でつけたオールバックの髪を逸らせて、大きな窓から覗く広い青空を僕越しに見つめる。僕がいままで、心のパレットで描いていた青空だ。
「画家になった気分で、この青空を描いていたんです」
「ほう、素敵だね。勝利くんは、画家になりたいのかい?」
「いえ、空想することくらいしか、僕にはできませんから」
いま描いたばかりの、透き通るような青空を眺める。その下にはカルメ焼きのようにこんがりと焼けた砂浜と、サファイヤとエメラルドを溶かして混ぜたような深い色をした海が静かに波を立てていた。
僕が生まれた島は静かで、のどかだ。島民は200人くらいしかいないし、僕と同じ8歳の子供は5人しかいない。老人も中年も子供も赤ちゃんも、小さな島の中で何不自由なく元気に暮らしている。
その中の例外が、僕だ。僕は生まれつき身体が弱くて、学校にもろくに通えていない。神様がたった一回、絶対に押さなければいけないボタンを間違えて押さなかったように、この島で僕だけが弱い人間だった。
一日のほとんどをベッドの上で過ごす。お父さんは役所勤め、お母さんは料理屋さんのパートで働いている。
島で唯一のお医者さんの村上先生が、普段家にいない両親の代わりに時々様子を見に来てくれる。
出来損ない。異端児。神に見放された子。
どうしてあいつはあんなに弱いんだ⁉
私に聞かないで! あなたの育て方が悪かったのよ!
夜中、僕が起きていることに気付かず口論する両親の声を聞くたびに、僕は自分の存在について疑問を抱く。
僕が弱いからお父さんとお母さんは喧嘩をする。僕が強くなれば喧嘩をしなくなるのかな? それとも、消えてしまったほうが2人は幸せなのかな?
ぐるぐると暗い渦の中に落ちていくようなまとわりつく疑問で身動きがとれず、ただただ息苦しくて静かにもがく。
「勝利くん。調子がいいときは外に出ないか? ほら、ヨウコウアゲハ。見たいって言っていたじゃないか」
「そう、ですね。でも、山を登らなくちゃいけないから」
ヨウコウアゲハ。この島に伝わる、太陽のように輝くアゲハチョウ。黄色い翅に黒い縁がある通常のアゲハチョウと違って、ヨウコウアゲハは翅全体に光沢があって太陽の光を浴びると太陽と同じくらいキラキラと光る。島の老人からの受け売りで、僕はまだ見たことがないけど。
ずっと、見たいと思っている。太陽のように輝く蝶なんてすごくきれいに決まっているから。見れば、その幻想的な輝きで僕にまとわりついた疑問や、呑み込んでくる黒い渦を吹き飛ばしてくれそうだから。
問題は、ヨウコウアゲハは山の中にいること。島には美しい海の他に小高い山もあるけど、僕みたいな弱い人間が山になんて登ったらすぐに呼吸困難になって死んでしまうかもしれない。岸に打ち上げられた魚のように、パクパクと無様に口を開け閉めして目をいっぱいに広げて、地を這う蟻たちに嘲笑われながら、死ぬ。
「僕の身体じゃ、無理ですよ。山を登るなんて」
先生に向き直るふりをしながら、僕の目に映る無様な死体を見られたくなくて顔を伏せた。先生は蟻に食われ始めた僕の死体に気付かないまま笑顔で口を開く。
「前から思ってるんだが。勝利くんの身体の弱さは、身体だけが原因じゃないと思うぞ」
「え?」
「肺や心臓の機能の弱さは、確かにある。だけどな、一番大切なのは、ここだ」
白衣の上から、左胸に岩のような拳を当てる。
「心臓、ですか?」
「心臓に一番近い、同じくらい大切な部分。こころだよ」
「こころ……」
「こころを強くすれば、身体もまた変わるはずだ。病は気から、って言うだろ?」
誇らしげに微笑む先生から目を逸らす。気持ちを強く持つだけでこの虚弱体質から抜け出せるなら、何度だって強くあろうと思ってやるさ。
両親にも言われたことがある。気持ちが弱いから身体も弱くなるのだと。
大人は何でも精神論で乗り越えさせようとする。実に馬鹿馬鹿しく、安易な考えだ。
この優しくも浅はかな先生に対して好意は抱いているから、きつくなりすぎないようフェルトで作ったカバーを言葉に被せて反論しようとしたとき、鬱屈とした僕とは正反対の明るい声が響いた。
「よぉっす! 勝利! 元気してるか?」
「明……いつの間に入ってきたんだよ」
褐色の肌に艶のある寝癖のついた髪。大きな瞳は、この世は楽しいことで溢れているとでもいうようにいつも星を散りばめて輝いている。
明は同級生の一人で、唯一の僕の友達だ。家の畑仕事を手伝わなくてはならないとかで、学校には通っていない。義務教育なのに問題がないのかどうかは僕には分からないけど、本人は問題ないというようにいつもあっけらかんとしている。どこで覚えるのか、算数もできて漢字も読めるから、本当に問題ないのかもしれない。
体調がいいときに海岸沿いを散歩していたら、たまたま砂浜で砂の城を作っていた明に出会った。そして磁石のS極とN極が惹かれ合うように、いつの間にか友達になっていた。
椅子に腰かけたままの先生は突然の明の登場に驚くことなく立ち上がる。
「明くんが来たんだったら、俺は邪魔だな。子供同士、楽しい話でもするといい」
オールバックの髪を撫でつけながら少しだけ満足そうに口元を緩め、部屋を出ていった。
その間、明も先生の退出を気にすることなく大股で僕のベッドに近付くと勢いよく腰掛けた。スプリングが揺れる。揺らしたくてわざとやったんだ。
「勝利、今日体調どう?」
「あんまりかな。朝も昼も、あんまり食べられなかった」
「そっか」
その「そっか」は、赤いリンゴを指差して「これは赤ですか?」と質問し、「はいそうです」と返事が来たときの「そっか」と同じだった。
同じ質問をされて「いいえ、違います」と返事が来たとしても、「はいそうです」と何も変わらない「そっか」が出るのが、明だ。
どっちでもいいんだ、僕の体調は。どうでもいいわけじゃない。これは明の挨拶で、蔑みや冗談は含まれていない。ただの挨拶だから僕も気楽に答えられて、申し訳ないという気持ちを抱かないで済む。
「なぁ、さっき先生とヨウコウアゲハの話してたろ?」
「聞いてたの? 立ち聞きとか、趣味悪いよ」
「しょうがないだろ。部屋に入ろうとしたら聞こえてきたんだから」
この島の人は基本的に戸締りをしない。僕の家も例に漏れず、だからこうやって先生や明といったご近所さんが簡単にお見舞いに来られる。
ベッドのスプリングが揺れる。明が暇を持て余すように脚をぶらぶらと振り始めた。
「俺もヨウコウアゲハ、見たいなぁ」
「明は元気なんだから、山に探しに行けばいいじゃないか」
「一人で行ったってつまらねーよ。行くなら、勝利と一緒がいい」
「気持ちは嬉しいけど、僕が山に登ったら死んじゃうよ」
蟻に喰われ、骨だけになった僕が浮かぶ。ついおかしくて笑ってしまった。反対に明はつまらなそうに口を尖らせ、わざとらしくぶーっと音を出した。
「そう簡単に人は死なねぇよ」
「そうかな?」
「まぁいいや。今度元気なとき、一緒に探しに行こうぜ」
力強く言い切ると、上映中の映画が切り替わったかのように明の話はガラリと変わった。
近所で見つけた野良猫のこと。犬の糞を踏んでしまったこと。大きな大根が獲れたこと。
けんけんぱと同じくらいのリズムで目まぐるしく移り変わる話に、空想する時間がないほど楽しく過ごせた。
*
まずお母さんが帰ってきた。その少し前に明は帰ってしまったから、夕焼けを見つめながら空想していた僕は身体を倒して布団を被った。
階段を上る音。木が軋み悲鳴を上げる。とんとん。ノックの音が部屋に響く。
「勝利、起きてる?」
「……うん」
ドアが開く。化粧が崩れ、疲れを顔に貼り付けたお母さんの顔が覗いた。
「ご飯は? 食べられそう?」
「……少しなら」
「……そう。作るから、先にお風呂入っちゃいなさい」
僕の返事を聞く前にお母さんの顔は見えなくなり、静かにドアが閉まった。階段を下りる音。木が軋む。この音はお母さんの悲鳴だ。病弱な子供を持った、憐れな自分の。余計な手間がかかり面倒が増える、負担を抱えた自分の。
勝利という名前は、何事にも勝ってほしいという願いを込めて名付けたんだと前に話してくれた。それなのに僕は弱くて負けっぱなし。病気に負けるから、勉強でもスポーツでも誰にも勝つことができない。
忌々しい子供なんだ、僕は。最近感じる、お父さんとお母さんが僕を「勝利」と呼ぶときに躊躇いがあることを。何事にも勝てず、可哀そうなほどに弱い僕を「勝利」と呼んでいいのかと一瞬、ほんの一瞬だけれど葛藤が見える。
僕は起き上がってお風呂場に向かいながら、明日は体調がよくなることを祈った。そして学校に行き、少しでも2人の負担を軽くしたい。祈ったところでどうにもならないことはよく分かっているけど、弱くて負担にしかならない僕には祈ることしかできない。
*
次の日、体調はよかった。息苦しさも咳も発熱もなく、朝起きてご飯を食べて、心底安堵した顔を浮かべる両親に見送られながら家を出た。
学校までの短くて長い距離を歩く。左手には太陽の光線を反射した眩しい海と暢気に鳴く海鳥たちが飛び交っている。
このまま体調がよくなれば、お父さんとお母さんは表に出さない嫌な顔をこれ以上浮かべることがなくなる。病気に勝ったのだと、喜んで「勝利」と呼んでくれる。
でも、それは僕がいじめられる頻度が増えることにも繋がるんだ。
学校に着いてしまった。海風が当たる、木でできた古めかしいこの島唯一の学校。小中一貫だけど生徒の数が少なく、校舎はこじんまりとしている。それなのにグラウンドは広い。島のお祭りやスポーツ大会も行われるからあえてグラウンドばかり広くしているのかもしれない。
グラウンドを横切る。教室に近付く。小学1年生から3年生まではひとつの教室に集められて勉強をしている。全員で16人。片付けるのが面倒くさいのか、人数が増えたときに即座に対応するためなのか、空き机と椅子も4つ置いてある。
教室に入る。弱い僕は教室にいる生徒たちの視線を一斉に浴び、極寒の地に降り立ったように縮こまった。休みがちな僕が登校した姿を見て驚く下級生と喜ぶ同級生――井川疾(はやて)の粘っこい笑みが見えた。
怯える身体を勘づかれないように席に座る。井川は僕の左隣。疾という名に似つかわしくないぽっちゃりとした身体つきは、小学生の相撲大会があれば優勝しそうなほどだ。横綱のような井川の左にはキノコ頭がトレードマークの水上。その左には井川とは正反対の体格の、骨だけと言っても過言ではないほどガリガリに痩せた山内がいる。髪の毛がぼさぼさしているからハタキみたいだ。
横綱とかキノコとかハタキとか、心の中ではいくらでも言える。面と向かっては言えない。僕にとって井川たちはなるべく関わり合いになりたくない、嫌な存在だから。行く手に大きなヘビが現れたときと同じだ。恐ろしいからどうにかしたいけど、どう対処していいか分からない。飛び越えたいと思っても、端に避けようと思っても、怖くて足が竦んでしまう。
それが井川たちだ。
日中は先生や他の生徒の目があるから何もしてこない。僕に牙を向けてくるのは、放課後。
「おい、病人。ちょっと来いよ」
帰り支度をしているとき、アニメに出てくる骨付き肉のように太い井川の腕が僕の肩に巻き付いてきた。
竦んだ足は僕の意思に関係なく進み、下卑た笑みを浮かべる井川たちと人目につくことなどほとんどない校舎裏に向かう。
陽の当たりづらい暗い場所。僕の心の中を映したような場所で、肩に回っていた太い腕が僕の首を絞めつけた。
気管が狭まり息がしづらくなる。喉が焼け付くように痛くなり顔が熱を帯びるのを感じた。
「やっちゃんやっちゃえ!」
「根性叩き直してやれ!」
やっちゃんは井川のあだ名だ。〈はやて〉の〈や〉からとっている。あだ名で呼ぶのは水上と山内くらいで、こいつらは性根が臆病者だからか僕に手を出さずひたすら井川の暴力を煽るだけだ。
水上と山内の野次が遠くに聞こえ、視界がぼやけてきたところで身体が軽くなった。井川が腕を離した。まだ終わらない。地面に落ちたセミのように力なく横たわった僕からランドセルを剥ぎ取り、僕の上に馬乗りになって圧し掛かると、その巨体を何度も跳ね上げ全体重をかけてくる。
横綱のくせにその動きは俊敏で、逃げ出すこともできないままただただ圧迫され続けた。くぐもった声と胃液が喉の奥に滞留し、限界を迎えようとしたところでやっと軽くなった。
「瀬崎、明日も学校来いよ。その弱い身体、鍛え直してやるからよ」
やっちゃんは優しいなぁあんなやつの相手してやるなんて。
あいつは雑魚だから、やっちゃんが鍛えてやらなきゃ死んじゃうもんなぁ。
水上と山内の腰巾着らしい媚びるような声と井川の重そうな足音が遠ざかっていく。
憎らしい音が完全に聞こえなくなったところで起き上がると、溜まっていた胃液が口をついて出てきた。饐えた臭いにまたしても吐き気が込み上げてきたけど何とか抑え、口中の苦々しい唾液を吐き出して手の甲で口を拭う。
井川は決して見えるところに傷をつけない。傷付けるのは僕の内臓と、こころだ。とても、嫌なやつだ。
鐘が反響するようにじんじんと痛む首や腹をさすりながらランドセルを背負う。服についた土汚れを丁寧に払い落し何もなかった自分を作り上げると帰路についた。
グラウンドを横切る。下級生は縄跳びやおにごっこをして遊び、上級生はサッカーやドッチボールを楽しんでいる。
ごほごほ。
咳が出てきた。井川の暴力のせいだ。
ごほごほ。
遊びたくても遊べない。その理由を再確認するための咳ではない。
校門を過ぎ、少し離れた波の音を聞きながら舗装された道を歩き続ける。
ごほごほ。
明日は熱が出るかもしれない。いつもそうだ。体調がよくて学校に行くと井川たちにいじめられる。次の日決まって熱を出して、数日休む。体調がよくなって学校に行って……。その繰り返しだ。明が学校に来ていたら僕のこの負のサイクルも変わるかもしれないけど、あいつは来られないんだ。家の手伝いで来られないなんて、立派じゃないか。僕の体調のために来てくれなんて、勝手すぎる。
咳をしながら歩く。ガードレールを挟んだ右手に浜辺が広がってきた。
お父さんとお母さんの、またかという落胆した顔と、情けなさそうに「勝利」と呼ぶ声が浮かぶ。
なんでそんなに身体が弱いの?
なんですぐ熱を出すの?
なんで元気に学校へ通えないの?
なんでなんでなんでなんで。
心臓の辺りがぎゅっと苦しくなった。誰かに鷲摑みにされたみたいに。井川に首を絞められたときとは違う。それよりも遥かに、切なくて苦しい。
少し、休みたい。
ガードレールを乗り越え浜辺に降り立つ。海に向かって数歩進むと、ろくに外に出ていないからいまだ新品同然のスニーカーに砂が入ってきた。
それが当たり前であるかのような砂の態度が不快で、僕は歩くのをやめてその場に座り込む。幸い長ズボンだったからズボンの裾から砂が入り込むことはなかった。
白波が立つ青い海とバタークッキーのような柔らかい色をした砂浜を見て、僕はまた見えないパレットを取り出しいま目の前にある風景を描いていく。
綿菓子のように柔らかそうな雲に、時折波間に見える魚たちの銀色に光る背びれ。砂浜には、装飾のように美しい色とりどりの貝殻が広がって――。
「今度は海を描いているのか?」
突然後ろから聞こえた声に意識が引き戻された。パレットと絵筆をしまい振り向く。
さっきまで僕がいた道路に自転車に乗った村上先生がいた。
自転車のかごの中には白い布が丸めて入れられている。先生は白衣を着ていなかったからきっとその白い布が白衣だ。髪型のせいか派手な赤い柄物のシャツのせいか、少し危ない人に見える。
余計な感想を抱いている間に、先生は自転車のスタンドを立ててかごの中の白衣を優しく手に取ると浜辺に降りてきた。僕の隣に胡坐をかいて座り、その中心に白衣を置いた。
「勝利くんは、絵、描いたことあるの?」
「幼稚園のときに、父の日や母の日のプレゼントで似顔絵を描いたくらいです」
「じゃあ、風景画は描いたことないんだ」
「ないですね」
「描いてみたら? 空想で絵を描くなんて勿体ないことしてないで、実際にキャンバスにさ」
「……別にどっちでもいいですけど。ただ、キャンバスや絵の具が欲しいって言ったら、親は喜ばないと思います」
「なんで?」
「そんなことより、身体を治せって言われますよ。いや、実際に言われはしないかもしれないけど、ただでさえ負担なのにって、嫌な顔されると思います」
「そんなことないと思うけどな」
先生は白衣に目を落とす。丁重に持ってきたその布はよく見ると膨らみがあり、もぞもぞと動いていた。僕がそれに気付くと先生はにやりと音が聞こえそうな顔をして、壊れ物を扱うように白衣を広げた。
中からまん丸い目をした仔猫が出てきた。先生の手の平にすっぽりと収まるほどの大きさで、みーみーと何かに縋るように鳴いている。
「ねこ……」
「そうだ、猫だ。野良猫なんだが、親とはぐれちゃったみたいでな。草むらで鳴いているのを見て、拾ったんだ」
そういえば明が野良猫の話をしていた。同じ猫か、もしくはその野良猫の子供なのかもしれない。
僕が仔猫を食い入るように見ていると、先生は高い高いをするように抱き上げて口を開いた。
「勝利くんの親の気持ちは、俺には分からん。でも、親の気持ちを気にして、やりたいことを我慢する必要はないと思うぞ」
「でも、絵は別に、やりたいって思ってるわけじゃないですし」
「ヨウコウアゲハは?」
ヨウコウアゲハは、見たい。山に登って、網膜にその姿を焼き付けたい。
空に浮かび、すべてを煌々と照らす太陽。それと同じくらい輝く蝶。その傍らには呼吸困難に陥った、僕の死体。
「あんま深く考え込むな。昨日も言ったが、こころもすごく大事なんだぞ」
死体が消えた。先生は仔猫を先ほどと同じように白衣で包(くる)み、大事そうに懐に抱えて立ち上がった。
尻についた砂を払い落とすこともせず悪戯っぽく笑うと、ひと際明るい声で言い放った。
「こころを強くするには、恐れず挑戦することが大切だぞ」
みー。白衣の中で仔猫が鳴いた。賛同か、僕への応援か。
そのまま振り返ることなく先生はかごへ仔猫を入れスタンドを上げると、ゆっくりゆっくりと診療所へ向かって自転車を漕いでいった。なるべく振動を起こさせないその動きに仔猫への愛情を感じる。
「こころを強くする、か」
こころを強くすればこの弱い身体も強くなる? お父さんとお母さんの負担もなくなって僕に笑顔を見せてくれる? 井川たちにいじめられなくなって毎日楽しく学校に通える?
恐れず挑戦すること。恐れないのは、お父さんとお母さんの冷ややかな視線を? 井川の横綱のような肉体を? 魂が抜けた、僕の死体を?
思いつくものがたくさんあって訳が分からなくなる。ひとつだけ確かなのは、死体を恐れなくなる方法。山に登ってヨウコウアゲハを探すこと。僕が生きて見つけることができれば、僕自身の死体には勝ったことになる。生まれて初めて、名前と同じ白星をあげたことになるんだ。
「挑戦、してみるか……」
「何にだよ」
今度はすぐ隣から声が聞こえた。仰け反りながら横を見るとしゃがんだ明がいた。
「あ、明! びっくりしたなぁ!」
「俺はお前の慌てようにびっくりだよ」
言葉とは裏腹に微塵も驚いていない明にいつから隣にいたのかと聞くと、ついさっきだと言う。どうやら僕が考え事を始めたタイミングで僕を見つけ、親切に僕の思考が終わるのを待っていてくれたらしい。結果的に堪え切れず、声を掛けてしまったみたいだけど。
「それより、勝利。お前何に挑戦すんだよ」
病弱な友達が何に挑戦するのか相当気になるらしく、明は重大な告白を聞き逃さないように身体を引っ付けて耳を大袈裟に傾けてくる。
僕は近付いてくる明の耳に若干引きながらヨウコウアゲハを探しに行くことだよ、と興奮なく冷静に呟いた。
それで興が削がれたのか、もっとババーンと大袈裟に発表しろよとぶつぶつ文句を垂れる。眉間に皺を寄せ口を尖らせた顔は、いかにも不満気だ。
勝手に盛り上がった明が悪いと思うけど、僕も何だか申し訳ない気持ちになった。萎んだ明の心を復活させようと何かいい言葉を探していたとき、で、いつ行くの? と聞こえた。
その言葉の発信源は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、これから冒険が始まる少年漫画の主人公のような笑顔を浮かべた明の口だった。ころころと変わる表情と話の転換の速さに驚き、「え」とも「あ」とも言えないまま口籠る。
そんな僕の様子を怖気づいたと思ったのか、またしても口を尖らせていつものようにわざとらしくぶーっと不満の音を鳴らす。
「前々から探しに行こうって言ってんじゃん。ヨウコウアゲハ。せっかく勝利がその気になったんだからさ。いまさら行きたくないなんて言うなよ」
「い、言わないよ。ヨウコウアゲハ、探し、行こう」
何度目かの決意表明に明は満足そうに目を細めて笑った。僕はといえば、もう後戻りできないという状況とまたしても浮かび上がってくる僕の死体に少なからず冷や汗を流しながら、明と簡単に詳細を決めた。
ヨウコウアゲハが生息しているという学校裏の小高い山。ほとんど獣道のような登山道の入り口に、明々後日の午前10時に集合。その日は土曜日で学校は休みだし、お父さんとお母さんも自治会の会合で家にいない。もし2人がいたら出掛けるときに身体のことで外出を、ましてや山登りなど確実に禁止されるからあえて留守の日にした。
話がまとまると、夕日が姿を見せ始めていたから僕たちはそれぞれ家に帰った。僕はそのとき気付いた。
いつの間にか咳が止まっていた。
*
咳は止まったのに次の日僕は熱を出した。夢の中で井川に首を絞められたことが原因かもしれない。
その次の日は午後から学校に行った。午前中に村上先生がお見舞いに来て、仔猫の話をしてくれて気持ちが明るくなった。診療所ではアイドル的存在になっているようで、患者さんにも可愛がられているらしい。今度見においでと言われて頷き、体調も良かったことと強くならなければと思ったことをきっかけに登校した。
登校したまではよかったけど、放課後、校舎裏で井川にボロ雑巾のようにいじめられた。僕にタックルして思いきり転ばせたあと、海老のように丸まった僕のわき腹を何度も踏んできた。
いつもと同じように足が動かなくなった。明がいたらと思ってしまった。そしてこれもいつもと同じように、弱い自分に嫌気がさした。
それは身体とこころ、どっちなんだろう。身体が弱いと思っていた。でも先生の話だと、僕のこころの弱さが身体の弱さに繋がっているのかもしれない。
僕の弱い部分は、どこなの?
明日。そう明日になれば、何かが変わるかもしれない。ヨウコウアゲハを探すための山登り。そこにいるのは、ヨウコウアゲハを見つけた元気な僕か、苦しくて喘いで死んだ僕の死体か。
咳が出た。それでも思考はやめなかった。部屋の窓から夜空を見上げて、パレットに絵の具を落とす。筆で夜空を作り上げていった。
もしヨウコウアゲハを見つけたら、僕はその姿をキャンバスに描いてみたいと思った。
*
家の中には誰もいなかった。両親が出掛けて一人になった僕は静かに家を出る。
体調はよかった。平熱で、喉に絡みつくような咳もない。
登山に適した服装が分からなかったから、とりあえずケガをしないように長袖のシャツと長ズボンで身を包んだ。水筒を持っていこうとしたけどお父さんたちにバレたら何を聞かれるか分からない。リュックと小銭だけを持った。
いつもの、学校へ向かう道を歩く。途中にあった自販機でペットボトルのお茶を買ってリュックにしまう。
裏山の登山道入り口が見えてくると、半そで長ズボンの明の姿が見えた。
「来た来た! 体調悪くて来られなかったらどうしようかと思ったよ!」
顔色のいい僕を見て心底安心したようだ。奇跡でも起きたかのような顔をしながら僕の肩を太鼓みたいに景気よく叩く。
「体調、いまはすごくいいんだ。それより、明は何も持ってないの?」
「あぁ、こんな小さな山、ハイキングみたいなものだからな! 勝利は飲み物、持ってきたか?」
「うん、持ってきたよ」
明にとってはハイキングでも、僕にとっては命を懸けた登山だ。途中で倒れて明の足手まといにならないように水分補給をしっかりしないと。
「じゃあ、行くぞ!」
元気な号令だった。意気揚々と明は登山道を上っていく。僕もあとを追う。歩幅は同じくらい。速度も同じくらい。明が僕に合わせてくれていることが分かった。
木の根や土砂が転がっている人ひとりがやっと通れるほどの登山道は、慣れない僕の足を何度も掬った。そのたびに転んでケガをしてしまうことや最悪死んでしまうことが頭をよぎったけど、何とか踏ん張って転ばずに歩き続けた。
人間、意外と適応するのが早い。たった数分しか歩いていないけど僕の身体はこの登山道に慣れ、周りの景色を楽しむ余裕も出てきた。
青々とした葉っぱを思う存分茂らせた木々。日陰になっているから歩いて汗をかき始めた身体には心地よい。時折、木漏れ日に当たることもあった。それはこの地が生きていることを改めて伝えてくれているようで、太陽の偉大さを感じた。
「勝利、大丈夫か?」
鼻歌を歌っていた明が唐突に振り返って聞いてきた。
「大丈夫だよ。少し、疲れたけど」
息は上がっていた。この呼吸の乱れが正常なのかそれとも僕だけの異常なものなのかは、普段こんなことをしない僕には判断がつかない。
「飲み物、飲めよ。こまめな水分補給は大事だぞ」
明は息ひとつ乱れていない。生活の一部となっている畑仕事で身体が鍛えられているのか。
リュックからお茶を取り出し、喉に流し込む。ゆっくりと、身体をびっくりさせないように。全身にまだ冷たさが残っていたお茶が染みわたっていく。
明にお茶を勧めると笑いながら断られた。僕のためにとっておけと言われた。
「じゃあ、飲みたくなったら言ってね。僕、本当に調子いいから」
「いっつも家に引き籠ってるからさ、こういう自然のパワーを感じてないだろ? 生きる力ってのを、いまもらってんじゃないか?」
生きる力。そうかもしれない。木漏れ日を浴びたときのように、自然の力強さを感じている。さらりとした汗をかき、お茶を飲んで身体が活性化されることも実感している。
死体のイメージは消えていた。このまま明とともに山を登れば、死体になる恐怖を克服できる気がした。
お茶をリュックにしまい明に微笑む。僕の決意が伝わったのか、明も歯を見せて笑うと鼻歌の続きを口ずさみながら頂上を目指す。僕も歌った。
やがて視界が開けた。円形状の原っぱが広がり、その周りを背の高い木々が囲んでいる。
中央には切り株がひとつ。ところどころに咲いた花にはひらひらと蝶が舞っていた。遮る木々をすり抜け、幾筋の陽が原っぱに入り込んでいる。その光に照らされる蝶――。
「あ、ヨウコウアゲハ!」
明が叫ぶ。初めて見る幻想的な光景にただぼうっと立ち尽くしていた僕は明の指先を目で追う。早く指先に辿り着きたいはずなのに視界はもどかしいほどゆっくりと動く。スローモーション再生のようだった。
早く。早く。目はようやく切り株のすぐ近くにいる存在を捉える。黄色くて背の高い花の先に、太陽の光を放つ蝶がいた。
ヨウコウアゲハは太陽の光の当たり方で輝きに強弱がつく翅を小刻みに動かしながら花の蜜を吸っている。
話で聞くよりもその姿はとても優雅で、華やかで……誰もが近寄りたくても近寄れない、太陽の化身のようだった。
「もっと近くで見ようぜ」
僕の返事を待たずにヨウコウアゲハへ近づく。警戒して逃げられないように足音をなるべく立てないところが気遣いのできる明らしかった。
遠ざかる背中を追いかけようとしたとき、背中に何かが当たったと思ったら前のめりに倒れ込んでいた。
咄嗟に両腕を前に出したけど勢いに負けて地面に顎を打った。呻き声が漏れる。涙目になりながら仰向けになると、丸くて大きなシルエットが僕を見下ろしていた。
「よぉ、瀬崎。お前病人のくせに何でこんなとこにいんだよ」
井川だった。後ろには水上と山内もいる。
「お前が出歩いてるの見つけて、暇だったから遊んでやろうと思って後をつけたら、まさか山に登るとはな」
「遠足でちゅか? パパとママはいないんでちゅか?」
水上と山内の野次に井川はぎゃははははと笑い声をあげる。この場にそぐわない下品な音だった。
井川たちが笑っている間に僕は無様なほど慌てて向かい合うように立ち上がる。足が竦んだ。まさかこんなところでこいつらに会うなんて。せっかくヨウコウアゲハを見つけたのに、この出会いをぶち壊されるだなんて。
明……っ!
震えて思い通りに声が出ない。喉がすぼんでしまったのか、振り返りながら声にならない声を出して明に助けを求める。
ヨウコウアゲハのすぐ隣。切り株に座った明の瞳は僕を映していなかった。
「さぁて、今日は相撲でもやるか。もちろん、俺とお前でな」
肉厚の張り手で腹や胸をいたぶられる僕の姿が浮かぶ。
頭から血がなくなってしまったかのように冷たい感覚がよぎる。もう一度、明と声にならない声で呼ぼうとしたとき、明の声が聞こえた。
――恐れずに挑戦するんだろ、勝利。
なんでその言葉を知っているんだ?
――せっかく山に登ってヨウコウアゲハを見つけたのに、ここでそいつらに負けたらお前は弱いままだ。たたかうんだよ。
たたかう?
井川が動く気配がする。どれだけ笑っても一向に自分たちのほうを向かない僕に痺れを切らし、一発目の張り手を繰り出そうとしていた。
僕が映っていない明の瞳が僕の瞳とぶつかる。映った。そして笑った。
「叫べ。そんで、暴れちまえ」
井川の張り手が迫る。その手が僕を突き飛ばす前に明の言葉が胸にすとんと落ちた。僕が籠っていた殻を割った。
背負っていたリュックを肩から外して両手に持ち叫んだ。叫びながら張り手を繰り出した井川の顔目掛けて思いきり振りかぶった。リュックが井川の横っ面にあたり、頬肉がハンバーグをこねるみたいに潰れた。口が「お」を発音する形からさらに上下に伸びて、鼻をつまみたくなるほど臭い液体が宙を舞う。そのままの勢いで横向きに倒れ込んだ井川は山内にあたり棒切れのような身体を押し潰した。いてぇ! と叫ぶ山内とやっちゃん大丈夫⁉ と天変地異でも起きたかのように喚きながら駆け寄る水上。
団子のように身を寄せ合った3人目掛けて何度もリュックを叩きつけた。
怖いから。
気持ちいいから。
強くなりたいから。
強くなれる気がしたから。
雄叫びを上げた。咆哮した。
何度も何度もリュックを叩きつけた。
軽いものがひしゃげる音と水音が聞こえる。外からは見えないペットボトルが、3人にリュックだけでは起こらない痛みを与えているようだ。
止む気配のない僕の咆哮と攻撃に、ついには泣きべそをかく3人。
ごめんなさい。
許してぇ!
口々に謝罪の言葉を叫びながら転がるようにもと来た道を帰っていった。
思っていたよりも小さかった3人の背中に最後に大きく「おぉ」と吠えた。
僕と明しかいない空間。鳥の囀りと風にそよぐ木々の囁きが聞こえる。あとは、僕の荒れた息遣いだけが耳に入っていた。
いままでにない疲労感が全身を覆っている。外に聞こえそうなほど心臓が早鐘を打ち、こめかみからは汗が大量に流れ落ちていた。
いま、生きているということを身体全体で感じていた。
「……やった。僕、井川たちに勝ったんだ」
叫ばない声は静かだった。でも弱くはない。生を尽くした声は強く、生きていた。
「……もう、お前は弱くないよ、勝利」
直接鼓膜を震わすような、はっきりとした静かな声だった。
「明?」
振り返る。切り株はある。ヨウコウアゲハも、今度は淡いピンク色の花にとまっている。
明の姿だけがなかった。
*
誰が切っているのか、切り株は成長して大木になることなく同じ場所にあった。
明が座っていたこの場所に腰を下ろす。脚や尻の位置を何度も調整しなければならないほど低くて座り辛い。年月の経過と呼応して身体が成長したことを実感し苦笑した。
僕が井川たちに反抗してから7年が経過していた。その年数は、明が消えてからの年数と同じ。
明が消えた。僕の唯一の友達だった、あの陽気な少年が消えた。
消えたのではなくお別れだったということは、あの日家に帰ったときに村上先生に教えてもらった。
7年前、山の中を探し回った挙句、明を見つけられなかった僕は辺りが薄暗くなってから家に帰った。
玄関先で待っていた両親と村上先生の視界に土や泥で汚れた僕が入ると、お母さんが駆け寄ってきて抱き締められた。
「勝利! どこ行ってたの!」
幾筋も涙を零しながらきつく、きつく抱き締められた。骨が砕けるんじゃないかって思うほど力強く、でも愛おしさで溢れていた。
お父さんと先生もそばに来て、馬鹿野郎! 心配したんだぞ! とお父さんは目を濡らしながら怒鳴った。
いままで触れたことのない2人の愛情に胸の中が蝋燭を灯したようにじんわりと温まった。
温まったところは、心臓。いや、心臓と同じくらい大事な部分。こころだと気付いて、先生を見上げる。
満足げに頷く先生に、疲れなのか戸惑いなのか、少し掠れた声で聞いてみた。
「先生。明がいなくなっちゃった……」
「明? 明って、お友達?」
困惑して顔を見合わせる両親。本当はこんなのんびりしている暇なんてない。泣き喚いて、いますぐ明を探してって叫ばなくてはいけないのに、鳥が空を飛び巣に帰るのと同じくらい、現状を不思議に思えない自分もいる。
僕自身も理解できない落ち着きに、先生はさらに落ち着いた声で言った。
「少し、2人でお話しようか」
先生のことを信頼している両親は、夜道をのんびり歩き始めた僕と先生の背を見送って家に入った。
島を照らす無数の星々。まんまるい月の少し妖しげな光を正面から受け、先生は「イマジナリーフレンドって知ってるか?」と世間話をするように聞いてきた。
「いまじなりー、ふれんど?」
「そう、イマジナリーフレンド。勝利くんと同じ歳くらいまでの子供の前に現れる、大人には見えないお友達だ」
「え? 大人には見えないって……もしかして、明は」
「そうだよ。俺には明という子供の姿は見えていなかった。勝利くんが明の名前を呼んだときには、イマジナリーフレンドが現れたんだと悟って、明がいるように振舞っていたけどね」
先生の話を聞いて思い出す。確かに先生は明が現れたとき、明がいるほうを見ていなかった。誰か来たら自然と目が向きそうなものなのに……。
俯いて思考する僕に先生は構わず続ける。
「最も、イマジナリーフレンドは勝利くんだけが特別なわけじゃないし、異常というわけでもない。子供の前には意外とイマジナリーフレンドが現れやすくて、男の子よりも女の子、ひとりっ子や親が子供の行動にあまり干渉しない場合に多い。だから明は勝利くんにしか見えない、勝利くんだけのお友達だったんだよ」
「……なんで、いなくなっちゃったのかな?」
「イマジナリーフレンドは、子供の成長とともに消失するといわれている。これも正常なことで、別に、明が勝利くんのことを嫌いになったからとか、そういうわけじゃない」
何かが頭に乗せられた。大きくて温かいそれは先生の手だった。
「勝利くん、雰囲気変わったよ。もちろんいい意味でね。こころが強くなったから、明は安心したんだよ。だから姿を消したんだ」
頭を撫でられた。慈しむような撫で方に先生が喜んでいることが伝わってきた。
だけど、僕は……。
明にありがとうを言えなかったことが心残りだった。
…
それからの僕の生活は変わった。咳や熱が出ることはほとんどなくなったし、両親の愛情を知り卑屈な思いが消え去った。
ヨウコウアゲハを見たあと、初めて学校に行く日には井川たちから報復されないかと少しだけ心配した。戦場に降り立った兵士のように緊張して教室に入ると、井川は僕を見ることなく、それどころか身体を縮こませて他人を演じていた。水上と山内も同じ。いじめられることはなくなった。
強くなった僕が歩み出した、新しい島の暮らし。お父さんに買ってもらったキャンバスと絵の具で毎日絵を描いた。畑と森の青々としたのどかな風景や、何度も空想で描いた高い空や深い海も。
記憶に焼き付いて離れないヨウコウアゲハは何十枚も描いた。その絵が、どうせダメだろうと思って応募してみたコンクールで優勝。美術に力を入れている高校からスカウトされてそこに進学することを決めた。
明日、僕は島を出る。島を出て、高校に通いながら下宿暮らしだ。
だから最後に来たかった。
僕のこころが強くなれた場所に。ヨウコウアゲハを見ることができた場所に。明と、お別れをした場所に。
「明。僕、明日島を出るよ」
鳥の囀り。木々の囁き。僕の声だけが響く。
ヨウコウアゲハが視界の端に映った。僕の後ろに舞っていく。人の気配がした。
誰かが僕の後ろに立っている。
「ずっと、そばにいたんだろ?」
返事はない。その代わり空気が振動した。頷いたのだろうか。
それだけで十分だった。
7年間。ずっと胸に溜めていた思いをやっと伝えられる。
「いままで、ありがとう」
ささやかな風が吹いた。僕の身体を包み込むように。
目を瞑る。懐かしくて、温かくて、優しい――。
抱擁。
風がやみ、目を開ける。
ゆっくりと振り返ると、背筋を伸ばして凛と立つ黄色い花の先にヨウコウアゲハが止まっていた。
触角や肢を動かし、懸命に蜜を吸っている。陽光を浴びた翅は、相変わらず太陽のように輝いていた。
座り心地の悪かった切り株から立ち上がる。このあとは村上先生の診療所に寄るつもりだ。
7年が経ち、あのときの仔猫もずんぐりと大きく育った。先生に挨拶がてら、遊んでやろう。
一歩踏み出し、もう一度だけ振り返る。
ヨウコウアゲハはまだそこにいた。
朗読動画『ヨウコウアゲハ』
朗読動画『ヨウコウアゲハ』は3部にわかれています。
第1部
動画時間:約13分
第2部
動画時間:約18分
第3部
動画時間:約20分
あとがき
いわゆる「島」と呼ばれる場所にはいくつか行ったことがあります。どこも非日常感があって楽しくて好きなのですが、うさぎ好きさんには広島県の大久野島(おおくのしま)をおすすめ。
野生のうさぎがあちこちに生息している島で、ご飯をあげて交流できます。しゃがんでいる私の腿に、ご飯を欲しがって足を乗せてきたりして、とってもかわいいです。ただ見ているだけでも癒されます。
そんな素敵な大久野島ですが、実は毒ガス工場があったという暗い一面もあるんです。そういう歴史的な観点からもとても興味深く、観光地として楽しめます。
またいつか絶対に遊びに行く。そう思うほど大好きな島です。
