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好き=仕事を目指し安定した職業を捨てた無名小説家

初めまして。
松波慶次といいます。
私は小説家になるために自費出版し、退路を断つために会社を辞め、現在夢に向かって走り続けています。

なぜ私が小説家を目指そうと思ったのか?

文章を書くことが好き、というのはもちろんですが、仕事に疲れて、会社を辞めたかったというのも理由の1つです。
小説家を目指そうと思い立ったときの話をする前に、私のいままでの人生についてお話させていただきます。

平凡な学生時代~社会人生活

私は静岡県民で、1992年生まれの女です。
(「なんでペンネームは男性名?」と思われるかもしれませんが、思い入れのある名前だからです)

学生生活はいたって普通でした。勉強もできたほうですし、友達もいて、何も困ることなく楽しく生活していました。

高校卒業と同時に、私は名の知れた金融機関に就職しました。その金融機関を選んだ理由は、貯金関係だけでなく色々な事業を行なっているので、多方面から自分の力をつけることができると思ったからです。

高校がバイト禁止だったので、その金融機関は私にとって人生初めての仕事でした。
初めての仕事、初めての社会人として、楽しいことも新しい経験もたくさんありました。

安定した職業と言われていたので、このまま1サラリーマンとして働いて給料をもらって、いつか結婚して子供を産んで・・・。

安定した平凡な一生を送るんだろうな

そう思っていました。

小説家になりたいと思い立った社会人5年目

そんな安定した社会人生活5年目のとき。
2016年6月に、「小説家になりたい」と思い立ちました。

理由は2つあります。
1つは、接客業という仕事に疲れていたから。
もう1つは、想像することや文章を書くことが好きだから。

私は金融機関勤めだったので、接客という仕事は付いて回ります。

お客さんから感謝されることもたくさんありましたが、理不尽な理由で怒られることや、こっちに非がないのに難癖付けて優遇してもらおうという人の相手は、本当に疲れました。

私は理不尽なことが嫌いですし、気も強かったので「なんでこっちに非がないのに言うことを聞かなくちゃいけないんだ」と悔しくてしょうがなかったです。

「そういう人もいるんだ」と割り切るしかないのですが、悔しくて、疲れて、「接客無理」という気持ちが高まり、他の仕事を探そうと思いました。

インターネットで仕事を探していると、ふと目に入ったのが「文学賞」という言葉でした。

そうか、そういう道もあるのか。
私は文章を考えるのが好きですし、物語を想像することも好きです。
昔やっていたブログで、歴史小説を書いていたこともありました。

小説家いいな。好きなことを仕事にできるし、楽しそう。
好きを仕事にしたいという気持ちが芽生えたのと、私の心の奥底に眠る核が疼いた瞬間でもありました。

きっかけは「羅生門」

その核というのは、高校1年生のときに国語の授業で書いた文章のことです。
その文章が、大学生でも書けないレベルの文章だと褒められたことが、私の励みでもあり、小説家を目指そうと思えたきっかけでもあります。

その授業内容というのは、『芥川龍之介の「羅生門」の続きを書け』というものでした。

「羅生門」とは、ざっくり言うと以下のようなお話です。

仕事をクビになった下人が羅生門の中で死体の髪の毛を毟っている老婆を発見しました。
老婆はその髪の毛を売るために毟っているというのですが、下人は道徳的に良くないと思ってやめさせようとします。

すると老婆は「生きるためには仕方がない」と言いました。その言葉を聞き、仕事をクビになって金銭的に困っていた下人も「俺も生きるためだ」と老婆の衣服を剥ぎ取り、羅生門をあとにします。

「羅生門」の最後の文章。
「下人の行方は、誰も知らない」
これに続く、「その後の羅生門を書け」、という課題です。
文章を考えることや物語を想像することが好きだった私にとっては、簡単な課題でした。

さくさくと書けて、先生に提出。そして後日、提出された中から、優秀作品としていくつか授業で取り上げられました。

その中に私の作品もあり、先生は絶賛。
「羅生門の話をきちんと熟知したうえで書かれており、一番しっくりくる続きである。この文章レベルは大学生でも書けない」

当時の私は、率直に言うとめちゃくちゃ嬉しかったです。作品としては自信がありましたし、まさかそこまで絶賛されるだなんて。
ちなみに、以下が私が書いた「羅生門」の続きです。

 その日も下人は、この荒廃した京都の町で盗みを働く次の標的をにらんでいた。
 
 と、下人の目線の先には、背の高い目のくぼんだいかにも悪相の一人の男が立っていた。男の足元には薄汚れた布切れが数枚じかに地面に置いてある。商売しているとは見えない。そのまがいものの周りには、もちろん人っ子ひとりもいない。
 
 いくら昼間とはいえ、この荒廃した状況の町にはそのようなものをのんびりと見物する余裕がある輩はいないのは当然のことである。
 
 下人は自分の脚に過剰な自信を持っていた。いくら相手が自分より強そうな奴でも追い付かれなければ大丈夫だ、今までの盗みで鍛えられたわしの脚に敵う奴はいない、と。
 
 そして下人は走った。男から一番遠いところにある、といっても、男の位置からは大股で一歩ぐらいの距離だが、布切れをつかみとるや、全速力で逃げた。
 
 どのくらい走ったのだろうか。もういいだろう・・・下人は狭い路地裏へ入った。息を整える間もなく、何者かに襟首をつかまれた。力強かった。
 
 下人は恐る恐る後ろを振り向いた。まずはゴツゴツした男のものと見える手が見えた。恐ろしさと戦いながら、目をそろそろ上げていくと、そこにはなんとさっきの商売まがいをしていた男がいたのだ。
 
 男は手を振り上げた。握られていたのは、太い木の棒。
 
 下人は忘れていた。こんな廃れた町にいる人間はみなすさんでいる。行動はいうまでもなく・・・。そう、まさに自分のようにー。
 
 そして棒は振り下ろされた・・・。
 
 その後、京の町では下人の走り回る音を聞いた者はいない・・・。

ちょっと最初にハードル上げちゃっていたので、「このぐらいなら自分でも書ける」と思われたならお恥ずかしい。

ですが、この「羅生門の続き」が、私が小説家を目指すきっかけの核となったのは事実です。
私にとって、思い入れの深い作品です(元々芥川龍之介も好きです)。

文学賞への応募!しかし・・・

文学賞のサイトで「新しい作品をお待ちしております」「新たな才能を求む」という文言をみて、
よしっ! 私の想像力で、いままでにない作品を世に送り出そう!
と意気込みました。

書きたいアイデアは次々と湧き上がります。
湧いたアイデアはメモしておいて、順番に書いていきました。
早く書きたくて、仕事を迅速に片付け、家に帰るとパソコンの前へ。

物語の盛り上がり部分は、私も興奮しながら書いていました。
私の頭の中の物語が文章になっていくのが楽しく、できあがった作品は我が子同然といえるぐらい、愛しています。

そんな作品たちを文学賞に応募しましたが、結果はことごとく落選

いままでに15作以上公募されている文学賞に応募してきましたが、かすりもしませんでした。
文学賞も、ジャンル不問のものからホラーなどジャンルが決められているもの、短編、中編、長編さまざまなものに応募しました。
それでも、何も当たらない。受賞できない。

自信作が落選するたび
私には才能がないのではないか
と打ちひしがれていき、

もう小説家になることを諦めたほうがいい
大人しく平凡な毎日を過ごしたほうがいい

と、小説を書く手が進まないようになっていきました。

だけど、現状を変えたい。好きなことを仕事にしたいという気持ちは強くあり、「諦める」ということを選択しないまま、鬱屈とした感情を抱いた日々を過ごします。

自費出版という希望と葛藤

そんなある日。

どうしたら文学賞がとれるのだろう?
なんで私の作品はダメなんだろう?

その理由を探るため、インターネットで「小説」や「文学賞」について調べていると、ある出版社のHPで「小説の相談受付けています」という文言を見つけました。

いままで、そんな文言を載せている出版社のHPを見たことがなく、相談内容例を見てみると「小説の書き方の相談」や「本を出したいと思っている人へ」などがありました。

現状、自分の作品への疑問と小説家になりたい=本を出したい気持ちがあった私は、藁にも縋る思いでその出版社にすぐに連絡を取りました。

出版社は、私の現在抱いているやりきれない感情を聞いてくれたり、文学賞受賞に関する私の疑問に答えてくれたりし、最終的に、「もしよければ書いた作品を読ませてください」と言ってくれたのです。

まさか、そんな嬉しいことを言ってもらえるなんて!
もしかしたら出版社が、「この作品、面白いですね! 出版しましょう」と言ってくれるかもしれない。

そうしたら、私の作品は本になって世に出るんだ!
後日また連絡してくれることになり、私は期待と不安を胸に落ち着かない日々を過ごしました。

数日後。
家に帰ると、一通の封筒がポストに入っていました。差出人は、例の出版社。
待ちに待った出版社からの連絡が来た! 

私は急いで家に入り、逸る気持ちに任せるまま封筒を開けました。
封筒の中には、書類が数通入っていました。書類の内容は作品の感想と、「この作品は出版できる」という私の作品を認めてくれるものでした。

やっとここまできたんだ! 
私の作品は、出版社に認められる作品だったんだ! 
胸が震え、感情が高ぶり、何度も何度もその書類を見返しました。

浮きたつ気持ちを抑え付けたのは、出版社が提示した私の作品の出版方法です。
出版社が提示したのは、自費出版でした。
その出版社から私の作品を出版することはできるけど、自費になる。

しかも、その額は高卒の安月給で働いている私にとってとても高額で、即決できるものではありませんでした。
考える時間をもらい、葛藤しまくります。

葛藤した理由は、金額だけではありません。それは、本を出版したからといって必ずしも小説家になれるわけではないということです。

本を出すことは、言ってしまえば誰でもできます。

その作品が多くの読者さんに読まれヒットし、重版なり他から小説を書く仕事が来ない限り、「1冊出版して終わり」状態になることだって十分に考えられる。

いや、その可能性のほうが高いのです。

高額な費用を払っても、小説家になれるわけではない。
だけど、支払えば、自分の本という宣伝できる武器が手に入る。

ここでやらなきゃ、私が小説家になる道は文学賞に受賞することのみ。
だったら、夢を叶える道を広げるために、自費出版してもいいんじゃないか?


金銭面では苦しいけど、メリットは大きい。
この費用は、夢への投資だと思えばいいんだ!

きっと、この機会を逃したら一生後悔する!

やろう! 


この機会をものにすればいいのだから!

そうして私は、自費出版に踏み切りました。

新たな戦い~著書出版をして~

自費出版の契約をしてから半年後の、2018年11月
無事に、私の作品は本になって全国で発売されました

本になった自分の作品を見たときは、「本当に本になった」と感動しました。手に取ってみると、「薄っ!」と思っていた以上の本の薄さにもびっくりし、「まぁ手に持ちやすいからいいかな」なんてポジティブに考えたり(笑)

私が書いたから作品の内容も分かっているのに、本になった自分の作品を読みたくて読書もしました。

出版契約をしてから出版するまで、作品の内容を推敲したり、本の表紙絵や帯文を考えたり。

自分の本をすべて自分で手掛けられたのは、本当に楽しかったですし、感慨深いものがありました。

しかし、いつまでも余韻に浸っているわけにはいきません。出版された本を、自分で宣伝しなくてはならないからです。

文学賞を取ったわけではないので、メディアで大々的に発表されることはありません。
いくら全国発売されたとはいっても、宣伝をしないと見向きもされない存在になってしまいます。

私が出版の次に行なったのは、考え付くあらゆる方法での宣伝活動です。

まずは、友達や先輩に宣伝しました。友達の友達や先輩の友人にも、勧めてもらいました。

書評サイトに献本も行いました。インターネットで本の宣伝方法を検索すると、出てきた方法です。

何冊か私が宣伝する用の本を持っていたので、それを書評サイトに献本しました。費用は掛かりましたが、良心的な値段だったのでハードルは低かったです。

感想を絶対に書いてくれる書評サイトもあったので、そこでは書いてくれた感想も参考にさせてもらいました。

他には、コラムを書いていたら地元メディアが目を付けて新聞に載せてくれた、というような話も見つけたので、地元メディアに手紙を添えて本を献本です。

地元TV局、地元新聞社、地元出版社、役所の広報にまで本を送り、連絡がなかったら私から連絡をするほど必死でした。

しかし、「報道や掲載はできない」「もし雑誌に載せることがあったらまた連絡します(連絡ない)」という対応ばかりで、現実はとても厳しかったです。

地元メディアだったら「静岡から小説家が生まれるぞ」と乗り気になってくれると思っていたので、あまりの塩対応に悔しい思いをし、有名になって見返してやりたいと強く思っています。

あるとき、献本して連絡がなかった地元出版社に私から連絡をしたら、「東京の出版社に送ったほうがいいよ」とアドバイスをしていただきました。

私も東京の出版社に献本することは考えましたが、地元出版社よりも東京の出版社の方がハードルが高いと思っていました。

まずは地元に送ってみよう。そもそも、地元で見向きもされないのに東京の出版社に送ったって余計にダメだろう、と考えていたのです。

でも、地元でこれだけ塩対応されているし、なりふり構っていられるか! ということで、東京の出版社にも献本しまくりました。

献本しまくったけど、出版社から特にアクションはなく。「こういうのは受け取れません」と丁寧なお手紙付きで返却されることもありました。
(返却されることはあるだろうと思っていましたが、実際にされるとショックでした)

私の本の出版社から宣伝方法の提案もあり、新聞に掲載も行いました。

私の本をもっとよく知ってもらいたい!
多くの人に読んでもらいたい!

強い気持ちが働き、宣伝費で合計50万円以上も使っています。

これだけかけて、やれることも試行錯誤して宣伝しているのに、私の本は広まっていかない。

絶対面白いのに
考えさせられるテーマなのに


と自分の作品に自信がある私は、上手くいかない現状に苦悩していました。

それでも、私の夢を知っている、本を読んでくれた友達や先輩は「他の作品も読みたい」「諦めちゃだめだよ」「おもしろいよ!」と応援してくれて、その声が私の力になっていました。

私の本を読みたいと言ってくれる人たちがいる。
応援してくれる人たちがいる。
こんなところで腐っていちゃダメだ!

私は立ち止まらず、宣伝を続けました。 並行して、文学賞への応募も欠かさず行うために、小説も書き続けました。

気になるので、出版後1ヶ月単位くらいで出版した本の販売状況を出版社に確認すると、あまり芳しくない。

山田悠介さんは自費出版した「リアル鬼ごっこ」でデビューしたのに、私の販売状況はそれには遠く及ばない。
私は第二の山田悠介になれない。

安定を捨て、自ら茨の道へ

「やはり無理なんじゃないか」と諦めの気持ちが芽生えることはよくありました。「諦めた方がいいんじゃないか」ともう1人の自分が囁いてきます。

私はもう1人の自分を押しのけ、叫びました。

いやだ、諦めたくない!
1度きりの人生なんだ! 
諦めて後悔だけはしたくない!


「悔いのない人生を送る」を私はモットーにしています。
ここで諦めたら、悔いが残る。

だから、一度進み始めた「小説家になる」という夢への道を引き返すことのできないよう、仕事を辞めることを考えました。

いまの安定した生活があると、

小説家になることを諦めても生きていける
現状に妥協して、いずれ諦めそうだ

だったら、その道をなくしてしまえばいい。夢への道、一本にしてしまえばいい。

もちろん、安定した仕事に就いていたので、親の反対はすごかったです。
「もったいない」
「辞めない方がいいよ」

ただの引き留めだけでなく
「いまのご時世、次の就職先なんて見当たらないよ」
そう言われたのが、悲しかった。

親も私の夢のことは知っています。
自費出版するときに、それまでひた隠しにしていた「小説家になりたい」という夢のことを話しました。

それなのに「次の就職先」の心配をされたことが、すごく悲しかった。

あぁ、私が小説家になれるだなんて思っていないんだ。だから、会社員として働く私の人生を心配しているんだ。

身内にも理解されない苦しみ、きっと私の「小説家になりたい」という夢なんてすでに忘れているのだろう。

悔しくて、悲しくて、締め付けられた胸の中で、私の炎は燃え上がった。

やってやるよ

絶対に、小説家になってやる。私の夢が「夢」で終わらないところを、見せてやる!

そして私は、2019年3月に仕事を辞めました。

やりたいことをやる人生にしませんか?

仕事を辞めてからは、小説を書く上で大切な文章力を鍛えるために、フリーライターをしています。

元々文章を書くことが好きなので、楽しくお仕事しています。

いままでの金融機関という職業からは全然違う世界に踏み込み、知らなかった世界が見られたことは私の視野を広げてくれました。

そして、新しい出会いもあり、小説家になりたいという私の夢を応援してくれる人も増えました。
親身になってアドバイスをしてくれる人もいます。

私が仕事を辞めなければ出会えなかった人たちと出会えて、応援してくれて・・・人との出会いに心から感謝です

現在も、小説は書き続けています。本の宣伝も続けており、1人でも多くの人に読んでもらえるよう活動中です。

電子書籍で費用ゼロで出版する方法も知り、再度紙媒体で出せるほどの金銭的余裕がない私は、電子書籍でも出版をしました

電子書籍で出版した本も、購入してくれる人や読んでくれる人がいて、励みになります。

まだ私は、夢への道をがむしゃらに走っている状態です。

私は小説家になんてなれない
諦めるべきなんだ

そう思うことはあるし、自分でどうすればいいのか分からなくなることもありますが

「他の作品も読みたい」
「次回作も楽しみにしている」
「この作品は考えさせられた」
「たくさんの人に読んでもらいたいね」

そういう声を思い出し、自分を鼓舞し続けています。

足が止まりそうになることはあるけれど、不安と苦しさで押しつぶされそうになるけれど、諦めたら、足を止めたらそこまでです。

だから、悔いのない人生を送るために、私は走り続けます!
「小説家」というゴールテープを、切ってみせます!

そしてこれを読んで、現状を壊すのが怖くて一歩を踏み出せない人が「人生一度きりだから、やりたいことをやって生きよう!」という気持ちになってもらえたらいいな、と思っています。