こんにちは、松波慶次です。
著作『ハイハイ』の小説と朗読動画を載せています。
ホラー×ショートストーリーです。
本記事の「あとがき」と朗読動画の「あと声」は違うことを載せているので、ご興味あればぜひどちらもご覧ください(^^)
あらすじ
私は別に子供なんてほしくなかった。だけど妊娠してしまった。
子供なんていらない。そんなある日、階段を下りるときに思った。
階段から落ちれば流産できるのではないか?
私は意を決して足を踏み出したーー。
小説『ハイハイ』
文字数:約2400字
別に、子供が欲しいわけじゃなかった。
あの人と結ばれて、幸せに生涯を過ごせればいいと思っていた。
それなのに、気分がノってつい避妊をしなかったら、たった一回で妊娠してしまった。
あの人は喜んでいた。子供が好きだから。私は、子供は二人の重荷になると考えていた。
妊娠が分かった途端、急いで私の実家に挨拶に来て、妊娠の事実と結婚することを宣言した。私も相手の実家に挨拶に行った。
驚きはされたけど、なんの波乱もなく結婚は認められて、あの人は心底幸せそうな顔を浮かべながら、毎日まだ膨らみもしない私のお腹を撫でた。
お互いの価値観の違いに気が付いていたけど、あの人を好きな気持ちに勝るものはなかった。だから、ここまできてしまった。
堕胎手術も考えたけど、それにはあの人の同意が必要で、絶対に不可能だ。
自分の中で渦巻く苦悩と焦り。早くどうにかしないと、堕ろすにしても私の命まで危うくなってしまう。
*
ある日、買い物に出掛けようと玄関を出た。
住んでいたのはアパートの二階。
階段を下りようとしたとき、ふと足を止めた。
もし、階段から落ちれば激しい衝撃で、流産できるのではないか?
頭の中に浮かんだ考えは、一筋の光だった。最善策。苦悩から私を解き放ってくれる、素晴らしい名案だった。
もちろん、自分が死なないように、後遺症も残らないように、落ちなければならない。
急いで下りようとして、段差を踏み外して、お腹を強打した。そうなるように、身体の向きを考える。
リスクはある。何かしらの怪我はする。だけど、私のお腹の中にいる邪魔者を消せるのなら、やれる。
心臓が高鳴る。脈打つ音が鼓膜に響く。頭の中で階段から落ちるところをシミュレーションする。顔は傷付けたくない。庇わないと。
周りに誰もいないのを確認して、目の前の最善策に近付く。
呼吸を整え、覚悟が決まると一瞬だった。
駆けるように足を踏み出すと、段差をわざと踏み間違えて前のめりに倒れた。世界が回る。怖くて顔を手で覆う。いや、顔を庇った。お腹は、剥き出し。段差の角に当たる。鈍い痛みがあった。左足。そっちは焼けるような痛みが走る。
ごろごろと転がり、一階の踊り場でやっと静止した。
全身に痛み。顔は無事。上体を起こすと、左足が赤く腫れていた。動かそうとしたけど動かせない。折れたらしい。そんなことより、お腹。子供。鈍い痛みはある。手を当ててみると、そこに「いる」と実感していた「もの」が、いなくなっていた。
*
自分で救急車を呼び、病院に搬送された。左足が折れているのだ、そうするのが「普通」だと思った。
あの人は、仕事を抜け出してすぐに病院へ駆けつけてくれた。ベッドにいる私とギプスで固定された左足を見て「それだけで済んで良かった」と安堵の笑みを浮かべる。
だけど私の暗い顔と、続けて病室に入ってきた医者の言葉に、表情をなくす。
子供は流産。
その事実は、とんでもない衝撃をあの人に与えたようだ。呆然としたままベッドに座り、俯いている私の肩を抱いてくれた。
泣いたり喚いたりしない。一番辛いのは、私。そう思ってくれているようだ。その優しさが心苦しかったけど、私は演技の裏で狂喜していた。
成功した。思惑通りになった。邪魔者は消えた!
今後は、バレないようにピルを飲み続けて、妊娠しないようにすればいい。いまを乗り切ったから、あとは二人の幸せな生涯が訪れるだけだ。
*
あの人は悲しみに沈んだまま帰っていった。私は今晩だけ、病院に泊まることになった。
もうしばらくは、「子を亡くした痛ましい母」を演じなくてはならない。それが少し面倒くさい。
達成感と疲れで、消灯時間になったらすんなりと寝入ったけど、妙な物音で目を覚ました。
時刻を確認する。深夜二時。
ドアで隔たれた廊下から聞こえる、ペタペタと、裸足で床を歩くような音。
場所は病院。丑三つ時。
急激に恐怖が包み込んだ。いまになって、個室入院を恨む。相部屋だったら、人が近くにいるというだけで安心できたのに。
布団を頭まで被り、目を瞑る。視界を閉ざすと他の感覚が研ぎ澄まされた。ペタペタという音がやけに耳に響くし、皮膚に触れる布団がとても気になる。
余計に怖くなって目を開けた。布団も息苦しくて顎まで下げる。
今度は身体が動かなくなった。できるのは、目を動かすことと瞬きのみ。頭の中に浮かんだ言葉。金縛り。
パニックになったけど身体は動かないし、声も出せない。
ペタペタ。ペタペタ。
次第に大きくなる音。
それは部屋の前で止まった。
見たくないのに、なぜか私の目はドアを向いている。
目を瞑りたい。得体の知れない強い力で、瞼を閉じることを邪魔されていた。
瞬きもできなくなり、目が乾いて涙が溢れる。
ゆっくりと、ドアが開いた。
その隙間から姿を現したのは、ハイハイをした赤ちゃんだった。でもその相貌は、ひと言で言えば異様。白い大きな頭に、暗くぽっかりと開いた眼窩。にこりと笑った黒い口からは、黒い涎が垂れている。
「アー、アー」
言葉を知らない赤ちゃんは、音を発しながらハイハイで近付いてくる。
悲鳴を上げた。声は出なかった。
ついに赤ちゃんはベッドを這い上がり、眼前に迫った。
目の乾きからか、恐怖からか、涙を大量に流しながらその暗い眼窩の奥底を見る。
そこには、私とあの人に似た、二歳くらいの女の子がいた。
「ごめ、な、さ……い」
なんとか絞り出せた、懺悔の言葉。
自分の過ちに気付くのには、もう、遅すぎた。
*
あう、あ、あ、あ、あ、あー。
「ご主人、心中お察しします。しかし、これは現実です。受け入れなくてはなりません」
「なんで、なんで彼女がこんな状態に!」
「どうやら、流産のショックのようです。意識が回復するまでしばらく、このまま見守るしかないでしょう」
あう、あー。あうあー。
「まさか、こんな……自分が赤ん坊みたいになるなんてっ!」
あっ、あう。アー、アー。
朗読動画『ハイハイ』
動画時間:約8分半
あとがき
私は猫を飼っているのですが、にゃんこたちに「赤ちゃんに接するような言葉遣い」をしてしまいます。例えば「おしっこ出た?」じゃなくて「おちっこ出た?」「ちっち出た?」と言ったり、おもちゃをとったら「偉いね~! すごいね~!」、爪切りやフィラリア予防接種などのときに大人しくしていたら「いい子だね~!」……。
いまのにゃんこの年齢的に、私より年上や同年代なので、ときどきふと、リアルで同年代くらいの人に対して「ちっち出た?」とか言ってることを想像し、内心おかしくて笑っています。
きっと、猫や動物を飼っている方なら、この気持ちというか言動、わかってくれる……はずっ!