こんにちは、松波慶次です。
『納豆と味噌汁』は、日常×サスペンスのショートストーリーです。
小説とともに朗読動画も載せているので、動画でも小説をお楽しみいただけます!
あらすじ
ある夫婦は、結婚21年目の朝を迎えていた。
食卓に並べられた納豆や味噌汁に満足げな夫と、食事の支度が終わり席に着く妻。
平穏な朝。平穏な日常……のはずだった。
妻は思い返す。夫が犯したこと。いままでの憎悪をーー。
小説『納豆と味噌汁』
文字数:約4000字
「今日は豆腐の味噌汁か」
暖かい春の日差しが降り注ぐリビングに、ポロシャツにチノパンという、おじさんらしい姿をしたあなたが入ってくる。
「ネギとか、お揚げのほうがよかった?」
「いや、味噌汁は豆腐が一番好物だから」
「そうよね」
あなたは笑いながら椅子に座ると、テーブルに並ぶ皿を一目で確認する。
豆腐の味噌汁、納豆、アジの開き、お漬物。日頃の疲れをとる、休日の朝の献立に満足したのか、あなたは私がご飯を茶碗によそい、テーブルに置くのを少し楽しそうに待っている。
私は焦らすようにゆっくりと湯気が立つご飯を茶碗によそって、「はいどうぞ」と目の前に置いた。
「ありがとう」
自分の分のご飯も用意して、私もテーブルにつく。
市川哲司と結婚して、二十一年目の朝。十八になる息子は、高校卒業後に都会で就職したから、家を出て一人暮らしをしている。
息子が家を出て専業主婦である私の仕事は軽くなったけど、夫である哲司はいる。居心地のいい家を作るための仕事は、平日も休日も関係なく続くのだ。
「いただきます」
「いただきます」
二人同時に手を合わせる。私はまず、漬物に箸を伸ばす。あなたはまず、アジの開き。納豆が献立で出る日は、必ず他のおかずを食べてから納豆を食べる。そのあと、味噌汁をぐいと飲み干す。それが、二十一年という長い年月、あなたと過ごして知ったあなたの習慣。
私はポリポリと小気味いい音を立てながら漬物を食べる。食事中はテレビをつけないから、漬物の音でも少しだけ賑やかになる。
「そういえば、隣の家の奥さん。そろそろ危ないらしいわよ」
「ん、そうなんだ。まだ若いのに、かわいそうだな」
「そうね、私の二個下だから……四十三歳か」
「子供も十三歳で、まだ幼いのにな。残された旦那と子供も、不憫だな」
漬物を食べる音。アジとご飯を噛み潰す音。茶碗と箸が当たったときの軽い音。
静寂にはならない。私たちが朝食を食べている限り、何かしらの音は響く。
ねぇ、あなたはいまどう思ってる?
私は心で問いかける。漬物を食べるあなたを、じっと舐めるように見つめる。
かつて愛した女がもうすぐ死ぬって聞いて、本当はいますぐ病院に駆け込みたいんじゃないの?
哲司と私は、同じ会社の先輩後輩として出会った。私が二十四歳、哲司が二十六歳のときに結婚。
「家庭を守ってほしい」
哲司からそう懇願された私は、渋々会社を辞めて専業主婦になった。
「結婚するなら、若いうちから一軒家を買っちゃおうか」
そのほうが、年取ってからローンを返済しなくて済む。アパートで家賃を払い続けるなら、自分の家の代金を払い続けたい。
そう思った私たちは、すぐに一軒家を購入した。建売物件だったけど、すでに妊娠していた私にとっては、早く落ち着ける場所ができて嬉しかった。
隣には、風間という新婚夫婦がすでに住んでいて、同じく専業主婦の風間理乃さんは、私の体調をよく気遣ってくれた。
「春子さん、おはよう。どうしたの?」
ある日、私が慌てて外に出てスマートフォンを鳴らしていると、ただならぬ様子に気付いた理乃さんが近付いてきた。
「あ、理乃さん。旦那が、お弁当忘れちゃって……電話しても出ないから、気付いて戻ってきてくれないかなって……」
「それは大変だね。私、哲司さんの職場まで届けようか?」
害のない笑顔。そう見えただけかもしれない。私は理乃さんに弁当を託した。二人の関係がいつ始まったのかは知らないけど、もしかしたらそのときすでにもう、進んでいたのかも。
妊娠中。つわりがひどくて家事ができないことや、日中心細くなることもあった。
哲司に早く帰ってきてほしくて、連絡する。最初は気遣う言葉をかけてくれて、すぐに帰ってきてくれた。
だけど、次第にその言葉は変わっていった。残業。打合せ。接待。
私がもう寝ていると思ったのか、夜中に堂々と、理乃さんと二人でタクシーに送られて帰ってきたときもある。
理乃さんの旦那は、きっと気付いていない。鈍感そうだったから。私は、気付いている。だけど、言えない。
いま言ったら、私のどす黒い感情は止まることなく湧き出て、お腹にいる我が子を溺れさせてしまいそうだから。
言えない。言えない。まだ言えない。
まだ言えないが続いて、息子が生まれた。さすがに、出産当日はすぐに駆け付けてくれたけど、その笑顔に硫酸をかけて、皮膚と肉が混ざった醜い顔にしてやりたかった。溶けて固まった福笑いのような面白い顔にして、二度と笑えなくしてやりたかった。
「生んでくれてありがとう」
涙ながらの感謝の言葉。その舌を引っこ抜いてやりたくなったけど、我慢した。少しだけ、希望を持っていたから。
子供が生まれたら、哲司はもう不貞を犯さない。ずっと私と子供のもとにいてくれる。
そうしたら、過去のことは忘れよう。
退院して、息子とともにわが家へ。しばらくはよかった。毎日、哲司は定時に帰って、私の代わりに子育てをしてくれたから、私も休むことができた。
平穏な毎日。誰にも邪魔されない、私たち家族だけの幸せな人生。
その幸福が、まさかひと月で消えるなんて、まったく予想できなかった。
残業。打合せ。接待。連日続く、哲司の芸のない嘘。理乃さんは、自分の旦那にどう理由を付けているのだろう。
「子供、かわいいね。哲司さんにそっくり」
理乃さんが家に来て、息子に笑顔を向ける。平日の昼間。どす黒いものが喉を締め付ける。
「そういえば理乃さん、最近夜出かけてるみたいだけど、どうしたの?」
冷たい声に背筋が凍る。自分の声だとは思えなかった。
私の異変に気付いていないのか、理乃さんは息子を愛らしそうに見つめたまま口を開く。
「私、夜のパート始めたのよ。昼間は家事があるから。ほら、旦那のために夕飯作っておいときたいし」
「……そうね」
それなら、夜に哲司と会うことができるものね。
穢らわしくて、不自然に見えないようにそっと息子を抱き上げて理乃さんから遠ざけた。
妊娠中は、子供を死なせてしまいそうだったから哲司に何も言えなかった。いまは、子供がかわいそうだから、哲司に何も言えなかった。
哲司に思いをぶつけたら、もう私は止まれない。行きつく先は、離婚の二文字。それは子供がかわいそうだ。子供には母と父、両方揃っていないと、情緒を育みきれないと思う。
私はまた口を閉ざす。静かに、静かに。海底に沈む貝のように。悟られないよう、必要最低限の笑顔を浮かべて。
そんな貝の生活は、息子が七歳のときに突如終わりを迎えた。
理乃さんに子供ができた。家庭の事情を詮索する気はないから、妊活しても授かれなかったのか、意図的にいままで避けていたのかは分からないけど、そのおかげで哲司はまた私たち家族のもとに帰ってきた。
「理乃さん、ご懐妊みたいね」
夕食時、さり気なく哲司を見ると、悪戯がバレそうな子供の顔をしていた。
「……そうだな」
たった一言。その、呟かれたたった一言に、込められた不安を感じた。
その不安は私からも不安を湧き立たせた。胃の奥からせり上がってくるような嫌悪感と吐き気に負けないよう、なんとかその場に踏み止まる。
「お母さん、大丈夫?」
親の顔色に敏感な息子が声を掛けてくれなければ、銅像のように動かないままだったかもしれない。
数か月後、理乃さんは出産した。理乃さんの旦那さんには似ていなかった。どちらかというと、哲司に似ていた。
「この子の眉間とか、旦那にそっくりなのよね」
私の家に子供を連れてきて、これ見よがしに見せつけてきた。
理乃さんの旦那は鈍い。きっと、いまのように言葉巧みに言いくるめて、不信感を抱かせないのだろう。
「かわいいわね」
哲司の子。哲司と、理乃さんの子。子供に罪はない。あるのは、哲司と理乃さんにだ。
その後は、子供が大きくなるにつれて子供の世話に忙しくなり、顔を合わせれば挨拶をする程度の仲になった。
理乃さんの子供は哲司の面影を湛えていたけど、理乃さんの旦那は相変わらず気付いていない。いや、もしかしたら気付いていたのかもしれない。私と同じ気持ちで、言い出せなかったのかも。
そして、いま。
わだかまりを抱いたままの私と、過去のことだと知らぬ顔をする哲司。秘密を胸に秘めたまま病死しようとしている理乃さん。
やっと、長年抱えていたものが終わりを迎える。
「納豆は、うまいから毎日でも食べられるよな。それに身体にいいし」
あなたは、三十回以上混ぜた納豆を茶碗に残ったご飯の上にかける。勢いよく口にかきこむと、満足そうに頬を緩ませた。
「そうね。でも、食べたあと口の中が粘つくのは、やめてほしいけど」
私も納豆を混ぜる。円を描く箸に豆が何度も巻き込まれ、徐々に蜘蛛の糸のように絡みついていく。
「そのためにも、味噌汁はいいんだよ。口の中の粘り気を、とってくれるから」
あなたは糸を引く口中を覗かせて笑うと、好物である豆腐の味噌汁に口をつける。
私は納豆を、混ぜ続ける。発生しすぎた糸は束になり、泡立ち始めていた。
「ん? 味噌汁、味変えた?」
混ぜる。混ぜる。
「新しい調味料買ったから、入れてみたの」
混ぜる。混ぜる。
「そうか」
首を傾げながら、もう一度口をつける。
納豆を、混ぜ続ける。発生した束と泡によって、豆が器の外にかき出された。
混ぜる。混ぜる。
息子は、独り立ちした。もう、私の思いを躊躇させるものはない。
突如、あなたは激しく咳き込み、血の気の失せた顔で悶えながら倒れた。
手から離れたお椀から味噌汁が零れ、豆腐がフローリングの床を滑る。
……もう、混ぜなくていい。どす黒いものは、とうに混ざり切っていたから。
私の位置から、あなたの顔は見えない。かろうじて、打ち上げられた魚のようにびくびくと撥ねる足が見えるだけ。
さぁ、かつて愛した女とともに、逝きなさい。
それだけ心の中で呟くと、私は納豆を茶碗に残ったご飯の上にかけた。
ー終ー
朗読動画『納豆と味噌汁』
動画時間:約15分
あとがき
納豆も味噌汁も好きです。味噌汁は、一番の具材は決められない! だって、豆腐も、ネギも、わかめも、じゃがいもも、あさりやしじみも、なんでも合うんだもん! どれもおいしいんだもん!
朝は忙しいからパン一個やご飯にふりかけとか納豆とかで済ませてしまいますが、ゆとりがあるときは、旅館ほど豪勢でなくても、何品かのおかずを味噌汁とともにいただきたいものですね。